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行事アラカルト

地名アラカルト

江戸時代、岐阜の長良川で獲れた鮎で作った「鮎鮨」が、江戸の将軍家に献上されていました。その行列は、宮西連区の和田町(大宮4)から杉戸(大宮1)にかけて通過しており、往時は「鮎鮨街道」とも称されていました。

 鮎鮨街道は、尾張徳川家が岐阜の長良川で獲れた鮎を鮨にし、江戸の徳川家康と秀忠に献上したのが始まりで、年に数回、5日間かけて江戸に運ばれていました。ちょうど江戸に着いたころ、食べごろに発酵した熟れ鮨になるということでした。

 岐阜から笠松、木曽川を渡って木曽川町黒田に入り、今伊勢から現在の県道名古屋岐阜線を南下、熱田に向かってひた走る将軍家への鮎鮨献上の一団。江戸まで約四百キロ、一日約八十キロの行程はまさに昼夜兼行。

将軍家献上の鮨桶がどの荷物よりも優先され、問屋場から問屋場にリレーされていきました。その一部区間が、宮西連区の和田町から杉戸でありました。「えっほ!えっほ!」と鮎鮨街道を駆け抜けていく様は、まさに圧巻だったことでしょう。

「丹」は赤土を意味する。推測ではあるが、この辺りは赤土で、三丹は三つの字からなり、北丹は北に位置したからで あろうか。逆に黒土を意味する「野黒」も、宮西連区には存在する。

木曽川の清く澄んだ水が流れ、平安時代より実り豊かな水田が広がっていたこの地域。真清田神社桃花祭では、邪気を祓うとされる桃の小枝で身を清め、その小枝をその清き水に流したと伝えられる。また、明治時代には境内神水舎の水が、明治天皇御巡幸の際に御膳水として出されたともいう。清き水が実り豊かな水田を潤していた地域、そんな古(いにしえ)の風景が頭に浮かびますね。

一宮市内には「一宮市大字一宮」という住所が43か所あります。宮西連区の北部にも多 く点在しています。明治時代の耕地整理のさい、人が住んでいなかった林など、整理する必要がない所が外され、この住 所が表記されました。それから時が経ち、人が住むようになってからも使われ続けています。一官市も以来住居表示を考えましたが、 実現することなくいまに至っているということです。

一宮市立宮 西小学校、 愛知県立一宮商業高校、九品寺幼稚園、一宮市九品地競技場、一宮市テニス場など、文化、教育施設が集積している文教地区であることから、「文京」となった。旧住所でいえば大正通り5丁目北側にあたり、昭和48年の新住居表示 で現在の 文京となった。

 金刀比羅社があるからか・・・。なぜ、本町一丁目地内に金刀比羅さんがあるのか経緯はわからない。ちなみに、市内瀬部の金刀比羅社は、香川県琴平町にある金刀比羅さんの全国六ヶ所のうちの正式な分社の一つ。海上安全の神様といわれる金刀比羅さんが、一宮に もあるというのは、木曽川乱流時代の水運に由来するのか。町名は、本宮のある琴平町にあやかったのだろう。

 「九品」は「くほん」とも読む仏教用語。品の良いことを「上品」、悪 いことを「下品」というが、さ らに「中品」もあ り、それぞれの品にまた上、中、下があって九品 となる。現世の行いによって、極楽往生にも九つのパターンがあるという教えで、南に九品寺があったことから名付けられた。

 昭和48年9月の新住居表示によって、現在の音羽2丁目と3丁目になつた。「野黒」は文字通り「野が黒い」ところ。野が黒いということは、土が肥えているということ。明治時代 に東海道本線が通 るまでは、肥えた大地が広がっていたことがうかがえる。

 九品地競技場南、県道一宮大垣線を挟んだ辺りが「楽橋町」。古く同競技場がまだ九品寺と霊園だったころ、ここは極楽と現世の境の地。橋を北に渡れば極楽、南に渡れば現世。まさに極楽と現世を結ぶ橋が架かっていたことから、地名にその名が付けられたという。

古くは真清田神社の祢宜が住んでおられたとされ、昭和48年の新住居表示で祢宜町という地名はなくなりましたが、いまでも大宮1丁目に町内会名で残っています。

 祢宜は神の心を和ませる「ねぐ」が語源で、宮司に次ぐ位となります。会社でいえば専務、学校でいえば教頭先生というところの現場責任者ですね。祢宜の下の位には権祢宜があります。

 「権」とは補佐するという意味があります。大きな神社になると、宮司の下に権宮司がおいでになります。祢宜町、真清田神社にまつわる地名でした。そして、いまでも町内会名として使われていることに、宮西連区の歴史を感じますね。